母車から出れない赤ちゃんのようなものだ
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梅原さんと山岸さんの対談が、日出処の天子には掲載されていて、
梅原さんが「何故聖徳太子を、男性しか愛せない人物像にしたのか」というもっともな問いに対し、山岸さんは
「聖徳太子というと、ちょっと凄い人というイメージが先行して、子供達にはついていけない。何かが欠けているという、傷のようなものがないと感情移入できないと思って」
と、いうような事を答えている。
この物語を読み終えて、
「他者への愛」と「自己愛」について考えている。
歯車のように、なんだかそれらのことが自分の中で動き出し、くるくると回っているのだ。
わかりもしない事だけど、
いったん回りだしたなら、止まるまではそれに絡まって私もぐるぐると、回るしかない。
それで、一つ思った。
「本を読み、感情移入する」ことは、
自分と生まれも育ちも性別すら違う主人公に同化し、
主人公の身になり迫り来るピンチにハラハラし、共に笑い、憤り、泣き……、文字通り、「一心同体」となり物語の世界を生きる事だ。
これ、太子の「愛」に近いのでは…と。
以下は作中より、毛人の台詞
「王子のおっしゃっている愛とは、相手の総てをのみ込み
相手を自分と寸分違わぬ何かにすることを指しているのです。
元は同じではないかと言い張るあなたさまは
わたしを愛しているといいながら
その実それは……あなた自信を愛しているのです
その思いから抜け出さぬかぎり
人は孤独から逃れられぬのです」
本を読むのも同じだ。
自己投影した主人公に同化するのは何故か?
何故、人は物語を欲するのか?
現実では、ぜんぜん思う通りに行かない自分、冴えない自分を一時忘れて、
魅力的で、少し寂しげな主人公に自分を重ね、そのドラマチックな人生を擬似体験する事で、
哀れな自分の現実の傷を癒そうとするからだ。
だから、物語にはまればはまるほど、人は現実の自分とのギャップに対処できなくなる。
夢から戻って来たくなくなるのだ。
これは、満たされない自己愛の話。
思えば、物語は夢に似ている。
夢分析では、
夢に出てくる人物は総て自分であるという。
家族も、恋人も、片思いの人も、知人友人、犬猫、しらない人、全部が自分だ。
当たり前だよな。だって、夢は自分の頭が生み出してるんだ。
自分の中の認識した他人が夢でしゃべるのと、
実際の現実で他人が言うとこは違う。
同じように、物語の世界も、登場人物を生み出したのは作者だ。
作者の中の色んな一面が投影された世界、社会の中で、作者の分身である登場人物が、いがみ合い、喧嘩したり、認め合ったり、愛し合ったり、裏切ったり、また仲直りしたりして、
それを私たちは見て、感情移入して笑ったり泣いたりしている。
他人の見る夢の中に、自分を重ねているんだ。
他者を、作者を愛する振りをして、実は自分を愛そうとしてるんだ。
何だか、滑稽だ。
もっとダイレクトにぶつかればいいのに。
でも、物語を通じて、
もうこの世に居ない人や、けして出会うことのない人や、遠い場所にいる人の心を覗ける。
それは、やっぱり素晴らしく魅惑的なことでもある。
でも、それにばかり比重が偏るとよくない。
地に足が着かなくなる。
段々麻痺して、ふわっふわして、自分の現実が物足りないもののようになって、
なんだか生きてるのか死んでるのかよくわからなくなる。
自分がどんどん薄まって、
なんだかカルピス味の水のようになってしまう。
それは良くない。
刺激を取り戻さないといけない。
現実感を、取り戻さなくてはいけない。
夢や物語に逃避する癖がついたら、現実に立ち向かえなくなる。
(でも、あまりにも現実とばかり戦い続けると、夢や物語を必要としなくなる…いいのか悪いのかわからないけど)
ともかく、読むという行為は受動的なので、
自分が楽しくなければいつでもその物語を見捨てられる。
だが自分の人生はそうはいかない。
能動的な自分の能力が衰えてしまえば…かなりヤバい事になる。
その先に待ち受けているのは、受動的の極致、死だ!
では、どうしたらいいのか?
書を捨てよ、街に出よう、って奴か?
でも、ともかく、体験をするしかない。
現実で、自分の手が、足が、目が、口が、脳みそが、実際に興奮することをやりまくるしかないと思う。
本能的に生きる。
苦手なことだ。
でも、大事だ。
刺激が必要だ。
脳がビリビリするような。
そんなこと、求めるからいけないのか?
だから、手っ取り早く物語を読むのか?
なんだか、麻薬的だ。
麻痺させ、興奮させ、快感を感じさせる。
これがないと、生きていけないと、心に忍び寄る。
中毒性、依存性がある。
でも、誰しも何かに依存せねば生きられない。
異性や、家庭、仕事、信仰、お金、名声といった現実派もいれば、
漫画や映画、アニメ、ゲーム、アイドル、ネット、といった非現実派もいる。
でも、どちらも、それなしには生きている実感がないという意味では同じだ。
でもいいじゃないか。
依存も過ぎなければ、杖となり、自分を支えてくれる。
それらが良い悪いの話ではない。どう付き合うかが大事なのだ。
なんか、よくわからなくなってきたが、所詮着地点の見えぬ事ははじめからわかっていた。
なんたって、愛についてだ。
数十分の思索で答えが出てたまるか。
「恋も感情移入からはじまる」みたいな話をするはずだったが、なんか路線がズレた。
だがまあそれもよし。
なんにしろ、
人間に色んな穴があるのは、
閉じないため。
自己完結したら、人は呼吸ができずに死ぬのである。
穴は、他者と、世界と、つながるためにある。
食べ物を食べる事で、瞳を開けることで、臭いを嗅ぐことで、音を聞くことで、毛穴を開き、空気の冷たさや、他者の温もりを知ることで、
まー、ほかにもイロイロと…。
認識という、自分の脳みそを一回通さないと、外のことは何一つ感じれない、そもそもヒキコモリンな人間という性質を。
それでも、他者が、自分以外の生命がそこにあるから自分という命は在れるのだと知るために、
認識という手袋越しに、必死に他者と繋がり合う。
何も見えず、聞こえず、自分の心臓の音しか聞こえない世界では、例え眠ろうと、夢は見ない。
だから、あんまり自分ばかりに同化したら、しまいにそんな感じになってしまう。
たまには、同化できない、
異質なものに触れ、鳥肌を立てるのも大事だ。
心地好いものばかりに囲まれ、スヤスヤと眠っていたい気持ちもわかるが、そしたら一生乳母車から出れない赤ちゃんのようなものだ。
フィクションを突き破って
鳥肌を立てながら生きてみたら?
と、
自分のことを何か思った。
人からそんなこと言われたら、怒り狂うが。
(にんげん、本当のことを他人から言われることほどムカつく事は無いから。)
やっぱね、ダメです。
このままじゃ、ダメになります。
いろいろと。
わかってるから、
やっぱり、何とかしないと。
梅原さんが「何故聖徳太子を、男性しか愛せない人物像にしたのか」というもっともな問いに対し、山岸さんは
「聖徳太子というと、ちょっと凄い人というイメージが先行して、子供達にはついていけない。何かが欠けているという、傷のようなものがないと感情移入できないと思って」
と、いうような事を答えている。
この物語を読み終えて、
「他者への愛」と「自己愛」について考えている。
歯車のように、なんだかそれらのことが自分の中で動き出し、くるくると回っているのだ。
わかりもしない事だけど、
いったん回りだしたなら、止まるまではそれに絡まって私もぐるぐると、回るしかない。
それで、一つ思った。
「本を読み、感情移入する」ことは、
自分と生まれも育ちも性別すら違う主人公に同化し、
主人公の身になり迫り来るピンチにハラハラし、共に笑い、憤り、泣き……、文字通り、「一心同体」となり物語の世界を生きる事だ。
これ、太子の「愛」に近いのでは…と。
以下は作中より、毛人の台詞
「王子のおっしゃっている愛とは、相手の総てをのみ込み
相手を自分と寸分違わぬ何かにすることを指しているのです。
元は同じではないかと言い張るあなたさまは
わたしを愛しているといいながら
その実それは……あなた自信を愛しているのです
その思いから抜け出さぬかぎり
人は孤独から逃れられぬのです」
本を読むのも同じだ。
自己投影した主人公に同化するのは何故か?
何故、人は物語を欲するのか?
現実では、ぜんぜん思う通りに行かない自分、冴えない自分を一時忘れて、
魅力的で、少し寂しげな主人公に自分を重ね、そのドラマチックな人生を擬似体験する事で、
哀れな自分の現実の傷を癒そうとするからだ。
だから、物語にはまればはまるほど、人は現実の自分とのギャップに対処できなくなる。
夢から戻って来たくなくなるのだ。
これは、満たされない自己愛の話。
思えば、物語は夢に似ている。
夢分析では、
夢に出てくる人物は総て自分であるという。
家族も、恋人も、片思いの人も、知人友人、犬猫、しらない人、全部が自分だ。
当たり前だよな。だって、夢は自分の頭が生み出してるんだ。
自分の中の認識した他人が夢でしゃべるのと、
実際の現実で他人が言うとこは違う。
同じように、物語の世界も、登場人物を生み出したのは作者だ。
作者の中の色んな一面が投影された世界、社会の中で、作者の分身である登場人物が、いがみ合い、喧嘩したり、認め合ったり、愛し合ったり、裏切ったり、また仲直りしたりして、
それを私たちは見て、感情移入して笑ったり泣いたりしている。
他人の見る夢の中に、自分を重ねているんだ。
他者を、作者を愛する振りをして、実は自分を愛そうとしてるんだ。
何だか、滑稽だ。
もっとダイレクトにぶつかればいいのに。
でも、物語を通じて、
もうこの世に居ない人や、けして出会うことのない人や、遠い場所にいる人の心を覗ける。
それは、やっぱり素晴らしく魅惑的なことでもある。
でも、それにばかり比重が偏るとよくない。
地に足が着かなくなる。
段々麻痺して、ふわっふわして、自分の現実が物足りないもののようになって、
なんだか生きてるのか死んでるのかよくわからなくなる。
自分がどんどん薄まって、
なんだかカルピス味の水のようになってしまう。
それは良くない。
刺激を取り戻さないといけない。
現実感を、取り戻さなくてはいけない。
夢や物語に逃避する癖がついたら、現実に立ち向かえなくなる。
(でも、あまりにも現実とばかり戦い続けると、夢や物語を必要としなくなる…いいのか悪いのかわからないけど)
ともかく、読むという行為は受動的なので、
自分が楽しくなければいつでもその物語を見捨てられる。
だが自分の人生はそうはいかない。
能動的な自分の能力が衰えてしまえば…かなりヤバい事になる。
その先に待ち受けているのは、受動的の極致、死だ!
では、どうしたらいいのか?
書を捨てよ、街に出よう、って奴か?
でも、ともかく、体験をするしかない。
現実で、自分の手が、足が、目が、口が、脳みそが、実際に興奮することをやりまくるしかないと思う。
本能的に生きる。
苦手なことだ。
でも、大事だ。
刺激が必要だ。
脳がビリビリするような。
そんなこと、求めるからいけないのか?
だから、手っ取り早く物語を読むのか?
なんだか、麻薬的だ。
麻痺させ、興奮させ、快感を感じさせる。
これがないと、生きていけないと、心に忍び寄る。
中毒性、依存性がある。
でも、誰しも何かに依存せねば生きられない。
異性や、家庭、仕事、信仰、お金、名声といった現実派もいれば、
漫画や映画、アニメ、ゲーム、アイドル、ネット、といった非現実派もいる。
でも、どちらも、それなしには生きている実感がないという意味では同じだ。
でもいいじゃないか。
依存も過ぎなければ、杖となり、自分を支えてくれる。
それらが良い悪いの話ではない。どう付き合うかが大事なのだ。
なんか、よくわからなくなってきたが、所詮着地点の見えぬ事ははじめからわかっていた。
なんたって、愛についてだ。
数十分の思索で答えが出てたまるか。
「恋も感情移入からはじまる」みたいな話をするはずだったが、なんか路線がズレた。
だがまあそれもよし。
なんにしろ、
人間に色んな穴があるのは、
閉じないため。
自己完結したら、人は呼吸ができずに死ぬのである。
穴は、他者と、世界と、つながるためにある。
食べ物を食べる事で、瞳を開けることで、臭いを嗅ぐことで、音を聞くことで、毛穴を開き、空気の冷たさや、他者の温もりを知ることで、
まー、ほかにもイロイロと…。
認識という、自分の脳みそを一回通さないと、外のことは何一つ感じれない、そもそもヒキコモリンな人間という性質を。
それでも、他者が、自分以外の生命がそこにあるから自分という命は在れるのだと知るために、
認識という手袋越しに、必死に他者と繋がり合う。
何も見えず、聞こえず、自分の心臓の音しか聞こえない世界では、例え眠ろうと、夢は見ない。
だから、あんまり自分ばかりに同化したら、しまいにそんな感じになってしまう。
たまには、同化できない、
異質なものに触れ、鳥肌を立てるのも大事だ。
心地好いものばかりに囲まれ、スヤスヤと眠っていたい気持ちもわかるが、そしたら一生乳母車から出れない赤ちゃんのようなものだ。
フィクションを突き破って
鳥肌を立てながら生きてみたら?
と、
自分のことを何か思った。
人からそんなこと言われたら、怒り狂うが。
(にんげん、本当のことを他人から言われることほどムカつく事は無いから。)
やっぱね、ダメです。
このままじゃ、ダメになります。
いろいろと。
わかってるから、
やっぱり、何とかしないと。
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