1%も理解していない。
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ここ一月ほど、ある原始仏教ブロガーの方の数年分の日記に目を通していた。
その方に影響され、お釈迦様が亡くなって二千年以上過ぎたいまの日本の仏教より、まずお釈迦様の生きていた頃の仏教を勉強しよう、と志し、色々と本を読んだり上座仏教の瞑想会の予定を組んだりしていた。
のだが…。
ここに来て、いくつか疑問が。
①「原始仏教」その物がもうこの世には存在しないのではないか?
お釈迦さまが亡くなって2500年。
そもそも、お釈迦様は自身でその説法を記してはいない。
一番古いと言われるお経も、お釈迦さまが亡くなり、唯一無二の指導者を失った弟子達が、その言葉を忘れないため、そして後世に残すために作ったものだ。
そして、そのお経も、2500年の間に様々な僧侶の手が入り、どこまでが原形で、どこからが後に改変され付け加えられた物かは今となっては分からない…らしい。
とりあえず、お釈迦様が生きていた頃に近い時期に書かれたお経=お釈迦様の考えに近いお経を今も教儀として使用している上座仏教について、これから勉強していこう、と決めたが…
②「大乗仏教は元々の釈迦の教えを水で薄めた上にまったく別の人間の思考体系をぶち込んだようなもの」
…という意見がある、のは一理あるとして、
では「大乗」=間違い、悪で
「小乗(上座)」=正しい、善なのか?
最初に大乗仏教が中国から日本に伝わったから…ていうのは、しょうがない。
でも、その後に生まれた日本の僧侶達…最澄、法然、空海、親鸞、道元、日蓮…彼等の起こした宗派により、沢山の信者が救われた、その人達の「信仰」まで間違いで、悪だと言えるのか?
③ていうか、私は仏教に対して何を求めるのか?
救われたいのか?
それとも、理解したいのか?
そりゃあ…両方求めたい。
うん。
と、まあ3つ、問題点が見つかったけど、なんとなく出口は見える。
お釈迦様に、自分の判断基準を受け渡す事は出来ない。
なぜなら、もう彼はこの世に居ないから。
いまあるのは、受け継がれた「印象」。
それを握っているのは、いま生きている僧侶達、仏教学者達で、彼等に帰依するつもりはないし、リスキーだから。
そして、自分の操縦桿を誰かに受け渡す程、私は無防備にはなれないから。
究極的に信頼できるものなど、この世にはないから。
仏教に、お釈迦様に、何を求めるか?
仏教の2500年の歴史は、実際どうでもいい。
自分にとって、使えるかどうか?
もう、この世には居ないあの人の、名残りから、
私はそれをブン盗れるだけブン盗って、自分の血とし、肉としたい、という、もう煩悩丸出しな欲求、執着でしかない。
私にとって、信仰とは、「他者に自分の操縦桿を受け渡すこと」で、
だとすれば、私は釈迦の信奉者にはなれない。
だけれども、時を越えてこの世の誰よりも、尊敬する。
あぁ、リアルタイムで会って見たかったよ…
キリストより、ムハンマドより、お釈迦様に、一目でいいから、お会いしたかった…。
私が死んでも、お釈迦様は輪廻から解脱されているから会えない、らしいです。
立川に行ったって、会えないのね…。
ともかく、ここが入口だ。
まだまだ、まだまだ、1%も理解していない。
お釈迦様のそのものの教えは、もうこの世にはないけれど、
ヒントや名残りはたくさんある。
これから、何十年かわからない、いきれるかぎりはその名残りを拾い集めようと思う。
それが、私の発心だ。
その方に影響され、お釈迦様が亡くなって二千年以上過ぎたいまの日本の仏教より、まずお釈迦様の生きていた頃の仏教を勉強しよう、と志し、色々と本を読んだり上座仏教の瞑想会の予定を組んだりしていた。
のだが…。
ここに来て、いくつか疑問が。
①「原始仏教」その物がもうこの世には存在しないのではないか?
お釈迦さまが亡くなって2500年。
そもそも、お釈迦様は自身でその説法を記してはいない。
一番古いと言われるお経も、お釈迦さまが亡くなり、唯一無二の指導者を失った弟子達が、その言葉を忘れないため、そして後世に残すために作ったものだ。
そして、そのお経も、2500年の間に様々な僧侶の手が入り、どこまでが原形で、どこからが後に改変され付け加えられた物かは今となっては分からない…らしい。
とりあえず、お釈迦様が生きていた頃に近い時期に書かれたお経=お釈迦様の考えに近いお経を今も教儀として使用している上座仏教について、これから勉強していこう、と決めたが…
②「大乗仏教は元々の釈迦の教えを水で薄めた上にまったく別の人間の思考体系をぶち込んだようなもの」
…という意見がある、のは一理あるとして、
では「大乗」=間違い、悪で
「小乗(上座)」=正しい、善なのか?
最初に大乗仏教が中国から日本に伝わったから…ていうのは、しょうがない。
でも、その後に生まれた日本の僧侶達…最澄、法然、空海、親鸞、道元、日蓮…彼等の起こした宗派により、沢山の信者が救われた、その人達の「信仰」まで間違いで、悪だと言えるのか?
③ていうか、私は仏教に対して何を求めるのか?
救われたいのか?
それとも、理解したいのか?
そりゃあ…両方求めたい。
うん。
と、まあ3つ、問題点が見つかったけど、なんとなく出口は見える。
お釈迦様に、自分の判断基準を受け渡す事は出来ない。
なぜなら、もう彼はこの世に居ないから。
いまあるのは、受け継がれた「印象」。
それを握っているのは、いま生きている僧侶達、仏教学者達で、彼等に帰依するつもりはないし、リスキーだから。
そして、自分の操縦桿を誰かに受け渡す程、私は無防備にはなれないから。
究極的に信頼できるものなど、この世にはないから。
仏教に、お釈迦様に、何を求めるか?
仏教の2500年の歴史は、実際どうでもいい。
自分にとって、使えるかどうか?
もう、この世には居ないあの人の、名残りから、
私はそれをブン盗れるだけブン盗って、自分の血とし、肉としたい、という、もう煩悩丸出しな欲求、執着でしかない。
私にとって、信仰とは、「他者に自分の操縦桿を受け渡すこと」で、
だとすれば、私は釈迦の信奉者にはなれない。
だけれども、時を越えてこの世の誰よりも、尊敬する。
あぁ、リアルタイムで会って見たかったよ…
キリストより、ムハンマドより、お釈迦様に、一目でいいから、お会いしたかった…。
私が死んでも、お釈迦様は輪廻から解脱されているから会えない、らしいです。
立川に行ったって、会えないのね…。
ともかく、ここが入口だ。
まだまだ、まだまだ、1%も理解していない。
お釈迦様のそのものの教えは、もうこの世にはないけれど、
ヒントや名残りはたくさんある。
これから、何十年かわからない、いきれるかぎりはその名残りを拾い集めようと思う。
それが、私の発心だ。
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